
「余震」という言葉が、保育にしっくりくるとは、正直思っていませんでした。
地震そのものではなく、“余震”のほうです。
本震のあとにやってくる、小さくて予測のつかない揺れ。
人によっては気づかないくらいのものもありますし、
ときには本震より怖いと感じる揺れもあります。
でも──
革命的な きび団子をそっと撫でた 小さな人の姿を思い返していたとき、
ふと、「あれは余震だったんじゃないか」と思い浮かびました。
壊れなかった。
けれど、揺れていた。
外側は平気なふりをしていても、
内側では何かが起きていたように見えました。
あのときは、うまく言葉にすることができませんでしたが、
あとから何度も思い返しているうちに、
その震えには、名前があったほうがよかったように思えてきました。
余震は、「もう終わった」と片づけられた出来事の、
残り火のようなものだと思います。
忘れたつもりでいても、
ふとした音やにおいで、体の奥にぶり返してくる揺れ。
それは、小さい人たちにも、大きいだけの人たちにも、きっとあるのだと思います。
私はこの「震動態」という言葉を、
“余震の居場所”として拾ったのかもしれません。
起きてしまって、でも誰にも気づかれないような小さな震え。
意味はわからないけれど、ずっと体のどこかに残っている感じ。
それを、「なかったこと」にしたくなかったのです。




「震え」は、止めようとしなくていいのだと思います。
「態」というのは、なにかをしたことではなく、
ただ“そうあるしかなかった”という時間のことです。
そして、「余震」は──
それを“感じてしまった”人の中にだけ、
静かに、確かに残る生き証みたいなものかもしれません。
あの人の中に、あのとき起きていた揺れ。
私の中にも、今なお残っている揺れ。
震動態という言葉は、
その両方に手を伸ばすために、
名づけられてしまったのかもしれません。
※この文章では、「余震」という言葉を、地震災害とは直接結びつけず、“人の内なる揺れ”の比喩として用いています。震災を経験された方々への配慮を胸に置きつつ、読み進めていただければ幸いです。







