
泥だんごに、ひびが入っていました
それを直したいと願った、年長組の女の子がいました
私は、「パテを作ろう」と提案しました
ふるいにかけた砂を、パウダー状にして、水で練る
それを、泥だんごの表面に塗り直す作業です
根気も時間もかかる仕事です
でも彼女は、すぐにうなずきました
ふたりで、黙々と作業しました
砂をふるい、水を加え、練り合わせ
ひびにそっと塗り込んでいく
周りの仲間たちも、そっと覗き込みながら
「どうやって作ったの?」と声をかけたり
小さなエールを送ったりしていました

パテ作りは、ただの補修ではありませんでした
あの時間は、彼女が泥だんごに、自分の手で
もう一度、命を吹き込もうとする営みだったのです
そのとき──
「見て見て!」
と弾んだ声が響きました
別の女の子が、新しい技法でつくった泥だんごを持ってきたのです
その泥だんごは
土ではなく、白砂でできていました
「きび団子みたいになっちゃった!」と、満面の笑顔で
私も思わず声を上げました
「本当だ! きび団子だ! 砂で全部つくれるのか!」
興奮まじりの声
周囲の仲間たちも、一気にそちらへ関心を向けました
その瞬間、空気が変わりました

あとから振り返ると
私はパテを練っていた彼女を、あのとき
置き去りにしてしまったのだとわかります
彼女は、ゆっくりと、きび団子を作った女の子の泥だんごに
指先で、そっと、触れました
笑っていました
でも、違いました
その笑顔の奥に
なにか、ぽっかりと空いたものがありました
壊れた泥だんごへの震え
一緒にいた仲間たちの気持ちが離れていく震え
支えていた私の気持ちが、別の方を向いた震え
全部を、ひとりで受け止めた手でした
撫でた指先は、震えていました
映像を見返して
何ともいいがたい思いが沸き起こりました
映像の中の彼女と一緒に、震えました。
──それが、私が初めて
震動態というものを
自分の体で知った瞬間でした
ずっと前に、塚越暁さんがこう言っていました
「人には“余”がなくちゃ。
余白、余韻、余計、余裕、余暇──
余がないと、やってらんないよ」
あの言葉に出会ってから、私はずっと「余」というものを大事にしてきました
足さないこと
残すこと
はみ出しても、受けとめること
それが保育だと思ってきました
でも、今になって思うのです
あの“余”の中には、“震え”が潜んでいたのだと
言葉にならないまま、でも確かに残っている揺れ
「わからないけど、たしかに起きていた」と、あとから気づくような揺れ
忘れたつもりでいたのに、ふとしたときに体の奥が思い出すような
それはきっと、「余震」だったのだと思います
私は保育の中で
そして自分自身の中にも
そういう震えが、たしかにあったのだと気づきはじめています






