
※この記事には「余震」という言葉が登場します
実際の震災被害にあわれた方への配慮を込めて
本記事における「余震」はあくまで保育・人間関係における内的な“震え”を表す比喩的表現であることを、最初にお伝えします
名前をつけた
それは、ひとつの「届けた」という感覚と
同時に、「手放してしまった」という感覚でもありました
“震動態”という言葉が生まれたとき
私はようやく、あの震えに輪郭を与えられた気がしました
でも、そこからです
「名前をつけたそのあと」
私は試されている気がしています
あの震えを
記録できたのか
語れたのか
それとも
名づけた瞬間に、何かをこぼしたのか
あの場面
私はカメラを構えていた
音声も録れていた
編集もした
ライブ配信までした




でも、いま思い返すと
あの揺れに名前を与えたことで
それが“他の誰かに伝わるもの”に変わってしまった気がしたんです
あのときの空気の圧
湿った泥のにおい
黙ったまま撫でる手の温度
名前をつけたその瞬間から
「これは震動態である」と言いきったとたんに
それらの“わからなさ”が、どこかへ逃げてしまったような

その名づけ
あんたの都合じゃない?
あんたの都合じゃない?

で?
結局、動画で撮れてたの?
震えは「視える」の?
見返して震えるのは、あんたの方なんじゃないの?
結局、動画で撮れてたの?
震えは「視える」の?
見返して震えるのは、あんたの方なんじゃないの?
言葉にしようとして
できなかったエピソードが、いくつもあります
「あ、いま震えてるな」と思ったのに
名前をつけられなかったあの瞬間たち
録れてた
でも語れなかった
語れなかったから、残った
言葉にならなかった震え
語られなかった揺れ
名前のつかなかった何か
それはきっと、“余震”なんだと思います
震動態と名づけたことで
こぼれ落ちたものがあったとしても
その存在を
こうして書いておけるなら
名前をつけたからこそ
記せる揺れがある
それが、今回の記録です






