
「待つ」というのは、口で言うほど優雅な時間ではありません。 はっきり言って、忍耐です
目の前で子どもが、ただボーッとしている。 あるいは、泥団子をひたすらコネ続けて、もう1時間
「せっかくここまで来たのに」
「あっちに面白い遊具があるのに」
この連載でずっとお話ししてきた「サンクコスト(元を取りたい心理)」が、私の頭の中で騒ぎ出します。
この時間が、将来なんの役に立つのか? 何か「成果」を持って帰らなくていいのか?
そんな時、私は園でのある風景を思い出します
「何もしていない」のではなく「世界と対話している」
積み木を積んでは崩し、積んでは崩す子
アリの行列を、飽きもせず地面に這いつくばって眺める子
私たち大人は、つい「上手だね」とか「何を見つけたの?」と
言葉で意味づけをしたくなります。結果や成果を確認したくなるのです。
けれど、彼らの横顔をよく見てください。 言葉にはなっていなくても、その真剣な眼差しや、小さな手つきからは、「いま、世界と対話しているんだ」 という熱気が伝わってきます。
外側から見れば「何もしていない(やらない)」ように見える時間。
でも、その内側では、大人の想像を遥かに超えたスピードで、感覚が働き、心が動き、自分という土台が育っています。
それを「無駄な時間」と切り捨てて、「ほら、あっちで遊ぼう」と大人の都合で中断させること。
それこそが、実は一番の「勿体無い」ことなのかもしれません。
「待つ」ことの正体は「信じる」こと
では、私たち大人にできることは何でしょうか。
それは、子どもを「信じる」ことです。
私が尊敬する川和保育園の寺田信太郎先生は、著書でこう語っています。
信太郎の「信」は「子どもを信じる、人を信じる」ということだ。 (中略) 私が考えている「信じる」は、相手の力を否定したり、見くびったりしない、ということである。 それでもって初めて、心から信じられる、任せられる、という関係が生み出される。
引用:『ふってもはれても』(寺田信太郎 著)
ハッとさせられます。
私たちが待てずに手や口を出してしまうのは
心のどこかで子どもの力を「見くびって」いるからではないでしょうか。
「言わなきゃできない」
「手伝わなきゃ失敗する」
私たちがついやってしまうこの「先回り」
それは優しさのようでいて、実は「あなたには自力で乗り越える力がない」という、否定のメッセージを伝えているのと同じことなのかもしれません。
私自身、この言葉に出会った時、胸に深く刺さりました。
親が「腹を括る」とき
本当の意味で「信じる」とは、 「この子は、この子自身の力で、必ず育っていく」 と、腹を括ることです。
たとえ今日、目に見える成果がなくても。 「なにもしない」をして帰ってきたように見えても。 その子の内側にある「育つ力」を、見くびらず、否定せず、ただじっと見守ること。
親が勝手に設定した「成長のゴール」や「元を取りたい欲」を消して、ただ隣に座り、同じ景色を眺めること。
それができた時、子どもは安心して「自分の時間」を生き始めます。 そして不思議なことに、親である私たち自身も、「育てなきゃ」という重たい呪いから、ふっと解き放たれるのです。

最後に
「やらない」は「ダメ」じゃない。 それは、その子がその子自身の力で根を張っている、尊い「育ち」の最中なのですから。
帰り道、お子さんの手を握ってみてください。 言葉にしなくても、その手の温もりだけで、きっと十分伝わるはずです。 「あなたはあなたのままで、最高だ」ということが。
(連載完)




