
震動態。
この言葉は、誰かに教わったわけではありません。
ある日、勝手に、自分の中に降ってきました。
中動態という言葉に出会ったとき、
私は、保育の見え方が大きく変わりました。
「やらせた」でも「やった」でもない。
「なってしまった」という在り方。
小さな人たちが、何かに巻き込まれ、いつの間にか生きている時間。
“気づいたら始まっていた”というあの感じに、
中動態はとてもよく似合いました。




そして今、中動態という言葉は、
彼らの遊びのなかの「いいこと思いついた」と出会い、
研修の中にも、少しずつ息づきはじめています。
でも、震動態は──
そういう場所には、まだ名前もついていません。
別に、つけようとも思っていません。
ただ、震えながら、静かにそこにある。
誰かに認めてもらうためでもなく、
誰かに説明するためでもない。
ただ、そこに寄り添って、
あったと、静かにたしかめたかっただけです。
「やった」でも、「させられた」でも、「なっていた」でもない。
ただ、起きてしまった。
自分でもうまく扱えず、
誰かに説明できるわけでもない。
でも、その“起きてしまった何か”に、
身体ごと震えながら反応している自分が、たしかにそこにいる。
たとえば、
「できなかった」のに、なぜか残っている手触り。
言葉にできない涙。
声に出せなかった怒り。
壊れなかったけれど、壊れかけていた“なにか”。
それに意味はあるのか?
正直、わかりません。
でも、残っている、ということだけは、たしかに言えます。
それが、震動態なのだと思います。
中動態が「流れのなかで動くこと」なら、
震動態は「流れのなかで、動けなくなること」かもしれません。
でも、“止まっている”とは違います。
震えながら、そこに居続ける。
私は、そんな場面に何度も立ち会ってきました。
声が出なかった。
近づけなかった。
なにか言いたかったけれど、言えなかった。
それは、対応のミスではありません。
支援の不備でもありません。
ただ、「震えている人のそばに立つ」ことしかできなかった時間。
どうにかしたくても、どうにもできなかった。
だから、名前をつけました。
目をそらさないために。
共に居るために。
この震えを、なかったことにしないために。






