
2025年4月20日、川和保育園の一室で行われた講演会。そのアーカイブ動画が後日配信され、咀嚼するように何度も観る中で、あの場で言葉にならなかった問いたちが、少しずつ浮かび上がってきた。
いま私たちに問われているのは、支援でも教育でもなく、“関係性”なのではないか。 そんな感覚に突き動かされながら、キーを打つ。
配布資料27ページ「見せて合意形成を!」につけた解説で、本田先生はこう語った

自分で思うように仕向ける
これが支援
そのために何をするか。見せる。体感させる。しかも“さりげなく”。 言葉で説得するのではなく、環境で納得に導く。
これは、まさに還すラボが掲げる「問いは“準備してから投げる”ものではない。“いま、ここ”にすでに落ちている」という理念ともぴたりと重なる。
先回りせず、差し出す。準備より先に共有。 小さい人に合わせて、大きい人が「ちょっとだけズレて待つ」──それが本当の意味での寄り添いなのだ。
「仕向ける」という言葉に、グッと身構えた。正直、ぺっ、と吐きたくなった。 その瞬間、「私が他人に何かされたわけじゃないけど」なのに、その言葉に込められた“何か”に、ざわっとした。
「シテアゲル主義」に違和感が走る
「仕向ける」には、どうしても「誤りなき意図」や「やらせよう」の香りがする。 主体は誰だ? 誰のための支援だ? ──そう問いつめたくなる。
還すラボは、小さい人たちに「彼らの時間」を還す活動。 そこに、「仕向ける」というニュアンスは、あまりにも「やる側」の論理じゃないか。
師の言葉を、ただ批判するのは簡単だ。 でも、そこで立ち止まらず、「なんで『ぺっ』って思ったんだろう?」と問い直す。
違和感を道しるべに、「自分の中の支援観」をもう一度すくい上げる。
支援って、「自分の願いと誰かのリアルが並跡するプロセス」なんだと、そう思えた時、初めて言葉を“使う側”になれる。
誰もが気持ちよく拍手した言葉に、自分だけが違和感を持った時、ひとは孤独を感じる。 でもその孤独の中で、「自分だけでも」って言えること。 それが、“自分の支援”の始まり。

支援とは、仕向けることではなく、寄り添うプロセスの連続。 違和感は、支援者としての眼彗を深めるチャンス。 誰かの正解を飲み込むのではなく、自分の正解を耕す旅。
そして、最大の衝撃は43ページ。「思春期・青年期の親の関わり方」というスライドに対して、本田先生はこう言い放った。

会場に笑いが起きた。けれど、その笑いの奥には“耳が痛い”という空気も流れていた。
笑った人、戸惑った人、メモを止めた人──反応はさまざまだった。 けれど、これはただの冗談じゃなかった。
本田先生がこの言葉を選んだのは、親を突き放すためじゃない。 「ひとりでいる時間を保障する」ことが、思春期の支援になる。 それを誰よりも知っているからこそ、あえて放たれた一撃だった。
この時期に 子どもが家族以外と関係を持てるかどうか
それが、将来の“生きやすさ”に直結する
親ができるのは、“不在であること”。 優しさが邪魔になるとき、大人の役割は“寄らない勇気”かもしれない。
“すっこんでろ”は 子どもを信じきる覚悟の一言
私は、この一言を、講演会のその場で受け取った。 そして、今こうして言葉にしている。「すっこんでろ」を、保護者として、保育者として、自分の言葉として引き受けている。
“見守る”という行為。それは、声をかけることでも、アドバイスすることでもない。 ときに、「何もしない」ことが、最大の“何か”になる。
以下は、講義中に拾った印象的な語句たち。 ここからも、子どもを“育てる”のでなく、“一緒に生きる”視点が浮かび上がる。
- 親として、子に期待しない勇気をもつ ──信じるって、手放すことなのかもしれない
- 話し言葉は消えてなくなる ──けれど、残るものがある
- 横浜市の療育手帳取得率は高い ──制度と出会うかどうか、それだけで差がつく
- ASD特性の人は、他人に興味がないぶん、ルーティンが重要 ──変化じゃなく、安心が土台
- 昼夜逆転の原因は「ほかにやることがないから」 ──原因は、本人ではなく環境
- 教師の役割は「お膳立てをするだけ」 ──子どもが“選ぶ”ための準備こそ支援
- 嘘には2種類ある:「怒られたくない」「よく見せたい」──後者は大人の圧かも
- “発達障害の人たちが受けてる支援”を、“定型発達の子ども”にも届ける価値
──特別じゃない、当たり前の支援 - 思春期の子に必要なのは「ぼっちに耐える力」 ──孤立じゃない、自律の入り口
ここでは、すべてを語り尽くすわけにはいかない。 だけど、ここで“語らない”ことこそ、語ることになる場合もある。
この続きを、“to be continued…”の気持ちで。
いずれ、また。






