還すラボ

小さい人たちに彼らの時間を還す

『14歳の栞』を観て 「還す」という行為の意味を問われた

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約3分
『14歳の栞』を観て 「還す」という行為の意味を問われた

「いつまで撮ってるんですか?」
「一生撮ってるんだよ」

このやりとりは、映画が終わった“その後”に差し込まれていた。
エンドロールが流れ、照明が落ちたスクリーン。
観客が席を立ち始めた、そのタイミング。

映っていたのは、プール掃除をする元・2年6組の生徒たち。
彼らにとっては、映画の撮影はもう終わっている。
けれど、レンズはまだ彼らを捉えていた。

その言葉に、不意を突かれて泣いた。
声にならないまま流れた涙が、
「ああ、自分がやりたかったのは、これだったんだ」と教えてくれた。

「一生撮ってるんだよ」

“そのまま”を信じて映すということ

映画『14歳の栞』は、ある中学校の2年6組、35人の“そのまま”を記録したドキュメンタリー。

特別な事件はない。
感動のどんでん返しもない。
けれど、不思議と目が離せない。

誰もが主役で、誰もが脇役。
誰もが「今ここにいる人」として映っていた。

“物語にされなかった時間”が、こんなにも尊いのだということを、私は初めて知った。

「還すラボ」でやりたかったことが ここにあった

私は、保育の現場で、日々カメラをまわしている。
子どもたちの“今”を、ありのままに記録し、社会に還すために。

還すラボという名前で、
遊びを映すのではなく、
彼らの時間を還すということを、映像でやってきたつもりだった。

でもこの映画は、そんな私にこう問いかけてきた。

「本当に、そのままを映していたか?」
「撮ることの“責任”まで、引き受けていたか?」

「語らない」ことの強さ 「語る」ことの責任

還すラボには、ふたつの上映会がある。

ひとつは上映会preview
語らず、ただ映像の“鮮度”にこだわって届ける。
それは撮りたてという意味ではない。
体温、息遣い、空気ごと届ける“今”への信頼。

もうひとつは本家
撮影当事者として語り、考察し、
「なぜこの瞬間を撮ったのか」を保護者と共有する。

『14歳の栞』を観てわかった。
語らずに託すことも、語って引き上げることも、同じだけの覚悟がいる。

「こんな私になりたい」は 誰のための言葉だったか

映画の中で、生徒たちは「こんな私になりたい」とプロフィール映像で語る。
けれどそこに、ほんの少しの違和感を覚えた。
それって、誰かに望まれた理想じゃないのか?と。

でも、カメラのまなざしは、それを否定しない。
“語った”という事実ごと、まるごと受けとめていた。

私もまた、
「こう見せたい」という大人のまなざしを乗せてしまったことがあったかもしれない。
撮ることで、誰かを“型”に引き寄せてしまっていたかもしれない。

撮ることは 信じること そして 還すこと

『14歳の栞』は、説明しない。
ただ、「あなたは、あなたのままでいい」と静かに差し出してくる。

そのままを映すとは、
何かを“させる”ことでも、“評価する”ことでもない。

それは、信じて待つということだった。


だから私は、今日も撮る。
彼らの“今”を、ありのまま受けとめて、
そのまま社会に還したい。

「一生撮ってるんだよ」

この言葉が、これからも私の背中を押し続けてくれる。

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